2016年6月22日水曜日

VOL・128 誰がために服を着る  2011・08

スーツとそのコーディネイトについて考えるとき、二つの面が考えられる。

ひとつは「社交性」 「社会性」など立場に応じて表現をする、


大切なプレゼンの資料と同じくらいのポジションにある。

もうひとつは個人としての楽しみ。自分の好きなものを好きなように着て

気持ち良ければそれでいいとする向き。

これには少し皮肉も込めたいところだが、「好み」と称して雑味のある服に

手を出したくなる人がいかに多いことか。

スーツの着こなしは長い歴史に培われた様式美である。


つまり、勝手な着こなしは本人の努力ほどには良い結果を生み出さないものだ。

普通の良い服を普通に着こなすことが出来ていないのに、うまく着くずすことはできない。


素材や構造や色使いの理解が浅いままくずしても、残念な結果しか待っていない。

しかし、ルール通りに着ることは簡単すぎて誰にでも出来るからと、

くずしやハズシに向きたい気持ちも分らないではない。

大切なことは様式美への造詣とハズシを同じ目線でバランスよく出来るかどうかだ。


そうして完成度が上がれば「個性」になる。

そうでなければ、ただの変わり者から脱し得ない。派

手なネクタイを褒められる?かも知れない。

目立てば人は何かを言いたくなる。それが形式的な褒め言葉になっただけだ。

身につけた服のバランスや色合わせが良ければ、単独のアイテムを褒めたり

言い及んだりすることは無い。ネクタイがお洒落と言われるより、○○氏は

お洒落と言われたいものだ。


着手としては、スーツの二面性、自分の為と、相手の為を考えれば、うまい着こなしを後押しする。

残念なのは、助言すべき売り手側にコンサルティング能力が欠如していることだ。

力不足のフィッティングやコーディネイトを客の「好み」に依るものだと責任転換するばかりである。

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