2016年6月19日日曜日

VOL・57 フィレンツエで独り言  2005・9

展示会と生地の買い付けの為、イタリアに来ている。

こちらもとても暑いが、クールビズなんてものはない。

自分の着る物はルールを踏まえた上で自分で決めている。

クラシコイタリアという表現を何度も用いてきた。

技術あるが故に収束されていく形というものがある。日本では技術や精神よりも

ディテールが先行しすぎた感が否めない。

スーツ業界(モードと呼ばれているメーカーも含めて)には、脱クラシコイタリアの風潮が

感じられる。まぁ、ファッション屋だから、そろそろ新しい物を売らねば飽きられそうという

気分も理解はする。しかし、どうだろう。イタリアが教えてくれたものは、我々作り手側の

物づくりに対する情熱、着手の側の装いのセンスと人生を謳歌する生き方ではなかっただろうか。

売れなくては困るが、売れれば良いという訳でもあるまい。クラシコを卒業するというより、延長線

上にある物を考えてみたいと思っている。

デザイナーあるいはデザイナー的発想では表現できない、クラシックテイラーの持つモード感


たいなものがある。特別なデザインではなく、完成度を求めると服のフォルムが変わってくる。

トラッドと表現していたアメリカをスルーした英国流儀の服が、イタリアをスルーする事によって、

少しモードに見えたあの時から十数年の歳月が流れた。


識別記号(ブランド)だけで有頂天になっている人たちに、あまりお洒落な人を見かけない。


確かに高価そうな服なのは解る。センスで着こなさないからだ。

有名ブランドを売っている人たち、安価な服を売っている人たち、考えてみて欲しい。

街行く人たちがお洒落に見えないのを、着手の所為にしますか。売り手のあなた方の

所為ではないですか。

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