2016年6月19日日曜日

VOL・65 グッドセンスの功罪  2006・5

着ることを自己表現と考え、皮膚感覚といっていい程までにうまく服を着こなす。

自分に似合う物、色、フォルムを理解していて、軽はずみに服のバリエーションを

増やしたりしない。トレンドイーターやブランドハンターではない。

そのように自身のスタイルを確立しているグッドセンスを備えた人は、

洋服を職業としていてもそんなに多くはないものだ。

本能と思われるぐらいのグッドセンスの持ち主は、服が欲しくてたまらないのに、

何も買えなくなる時がある。洋服的うつ状態とでもいえばいいだろうか。

何も悩まずに戦利品の如く服を買い漁れる時もあるのだが、本当に何を見ても食指が

動かず買えなくなる時がある。例をどのように挙げたらいいか、説明に窮するが、

わかりやすくイタリアそれもミラノで買い物と意気込んだとしよう。 

安直な買い物目的の観光客とは一線を画すから、道行くミラネーゼを見るし、

ショップの販売員たちの着こなしを目の当たりにする。そうして文化や習慣の違いに

押しつぶされることになる。 

日本でどんなにお洒落の地域一番店と名乗れる人でも、自分の着ている物が借り物の様で、

素敵に見えないときがある。

美しさや格好良さの軸が違っているのだ。体型の違いだけでなく、

曖昧なテイストの方を良しとする日本とは感覚が異なる。

日本向けにセレクトされたイタリアの服とは異なり、どれを取っても似合いそうに思えない。

服に負けている感じが襲ってくるのだ。今着ているお気に入りの服でさえ、

貧相な感じがしてならない。程よい渋さが持ち味の着こなしだったのに、ただ地味なだけに思える。

海外に限らず、環境の変化などで自分の服を否定されたと感じる瞬間は、

センスの良い人ほど多いのではないだろうか。

本物のマイスタイルは、内面が滲み出てこそ完成されるものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿