2016年6月19日日曜日

VOL・67 ロケーションのちから  2006・7

服に限らず、クルマ、家具などデザインが施された物は、

すべてと言っていいほどイタリアに求心力がある。

輸入された物か、あるいはそれを標榜して作り出されたものが多い。

彼らの衣・食・住・遊に対する感性は異常といっていい程貪欲だ。

小都市国家だからそれぞれの都市で人の個性が違うので町の個性も違う。

まァ、公約数の話ととっていただきたい。

人生を謳歌し楽しむことにかけては、プロ中のプロであり、全てに於いてその軸がブレないのだ。

だから彼らが作り出す物のデザイン、食べ物の味は真似の出来ないモノがある。

ライフスタイルをビジュアルで表現する服やクルマのセンスを生み出す土壌は

どこにあるのだろうか。

イタリア人はその年齢に関係なく、愛に熱心で従順だ。

人やペットに対してだけでなく、物や技術に対してもそれが感じられる。

その分、離婚率も高いと聞くが、それはさておき、そういう愛を育むべきロケーションがある。

つまり街並みや郊外の自然だ。実に絵になる。我が国の様に無秩序に立ち並ぶ建物や

氾濫するモノの中では、愛は育まれない。愛ではなく商(マネー)しか見えない街には

ロマンチックな心を感じるのは難しい。ロマンチックなロケーションが、モノを作り出すための

愛を育てる。間違っても学者やシステムの力ではない。

イタリア人たちはなぜ生き生きしているのか。

服が美しい、料理が旨い、人生を楽しむ達人である。

惚れっぽくて、マザコンでいい加減。イタリア贔屓ではないが、そんなふうに憧れもあるし

拒絶もある。だから楽しいのだろう。日本では、イタリア服も買えるし、イタ飯も食べられる。

建造物などのロケーションは歴史だから、瞬時に真似る事は無理な話だが、

そのスピリッツを手本にしなければハヤリモノの街しか生まれて来ない。

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